わが子からの『 不登校 』という贈りもの
「不登校の親」になって早、7年になりました。
当時、小学校2年生だった二男も今は中学3年生。
高校も自分で決めて将来の
夢に向かって一歩、一歩 歩き出しました。
私の家族は、夫、夫の父母、長女18歳、長男16歳、二男15歳の7人家族です。
私は、長男の嫁として夫の妻として、そして3人の子供の母として、がむしゃらにしてきて十数年・・・ 気がついてみると、やっと私自身が自分らしく生きていけるようになり本当の親になれたような気がします。
今から7年前の2学期が始まったばかりの日のことを忘れることはできません。
「学校に行きたくない、先生が怖い」・・・・ と 二男。
ドキッとしながら「何いゅうとん 学校はみんな行くところじゃが」・・・と 私。
それから毎朝、こういう会話をしながら布団をもぎ取り、制服を無理にでも着せていく毎日が始まりました。
私の顔も最後の方は、鬼のようになって..... (怖かっただろうな....!!)
起こす私も朝が来るのが怖くて怖くて、「朝なんて来なければいい...」 と何度も思いました。
二男は、小学校2年生の一学期まで、「良い子」として認められている子でした。親も、この子は手のかからない何でも自分でできる自立していて頼もしい子・・・と思っていましたからその二男が、不登校になるなんて思ってもいませんでした。(そこに大きなおとし穴があったのです!!)
その年の夏休み中の出来事でした。
休み中に学校行事があり、担任の先生に あることで兄と比べられ、家に帰って
火山の大噴火のような大ゲンカを兄としたのです。
(子供のプライドを傷つけられたのでしょう)
その頃より、反抗が始まり 手がつけられない状態になっていて、いろんな面で信号を出していたのに、気がついてやれず、2学期が始まってしまいました。
いつものように、夏休みの宿題、自由勉強をランドセルに入れ 学校に持って行くのですが、 先生に提出しないで帰って来る。
家に帰っても落ち着きがなく、イライラしていて、暴言は吐く、物にあたる、親の言うことは無視する、特に1歳違いの兄にきつくあたる。
なぜ・・・・? どうして・・・・・? 私の不安は募るばかり・・・・
そうしているうちに 朝、起きなくなり学校へ電話をすると、
「遅れてでも連れてきてください」と 担任の先生からのお返事。
その頃は、みんな学校へ行くのがあたり前、いえ、起こして連れていくのが親の
努め、どんなことをしても学校へ.....という考えだったので、毎朝、起こすだけで一日分のエネルギーを全部使い果たし、遅れてでも引きずってでも車で学校まで連れて行っていました。
・・・・が当然、教室に入れるはずがありません。
その日から、親子で保健室に通う日々が始まったのです。
担任の先生の声を聞くと、目がつり上がり、保健室のベットの枕は投げつける。お布団もランドセルも投げる、鍵は全部閉めていく、自分の耳を押さえ
「頭が割れる― 頭が痛い― 」
とわめく。 私はその姿を見て、頭がどうにかなったんではないかと保健室で涙していました。まだ、子供がこんなに苦しんでいるのに 私は子供のことをわかってやれず、毎日学校に連れていっていました。 (本当にひどい親です)
その頃だったと思います。自分ひとりで校長室に入っていき、校長先生に
「学校をやめさせてください」
と言いに行ったのです。 校長先生はニコニコしながら、答えてくださったのですが私の方が目は点になり穴があったら 入りたいぐらいびっくりしました。
・・・・ 私の今までしたことは何だったのだろう?
子育て、家族、いえ何もかも 私の方が全部自信を失ってしまってガタガタと音を立てて崩れて行くのを感じたのです。
今まで、意欲満々だった我が子が目をつり上げ、やる気も自信も全部なくし、攻撃性を持って 私だけに暴力を振るってくる。 どうしていいかわからず、その頃は夫にも言えず 私一人で考え込む毎日が続き、保健室で泣くばかりしていました。
その時、教頭先生から
「お母ちゃんより、もっともっと子供の方が苦しんよ」
と 言われた言葉.... 「はっ」として、私はバットで頭を殴られた気がして、そこで、初めて我に返ったのを覚えています。
私が泣いても解決しない....。その日から、自分で何とかしようと思い、自分の子は自分で守ると決意して、図書館、教育センター、児童相談所、その他・・・・良いと思う所には、ほとんど足を運び「不登校」について勉強しました。
でも、そのころ親の会なんて知らなかったし、学区では みんな学校に行っていたので 不登校の親は私だけ・・・ 家族にもわかってもらえず、いくら私だけが、こんなに不登校について、知識を身につけても だんだん苦しくなるばかりで何も解決できない。 「不登校は希望の星」「子供を信じて待ちましょう」「小さいときになって良かったですね」・・・・とか その時の私は、そういうことも受け付けない身体になり、不安と焦りばかりでパニック状態になっていきました。
だんだん、落ち込んでいく自分を受け止められなくて、マイナス思考になっていく自分がみじめで どうしていいかわからず、カウンセリングを受けました。
そのときに言われた言葉・・・・それは
「お母さん、まだ8歳ぐらいで親に気を使いながら、良い子を演じて仮面をかぶって生活しているのですよ そういう子供の気持ちがわかりますか?疲れてしまったのでしょうね、もう少し子供らしくのんびりさせてあげましょうよ」
と言われたのです。
その言葉も私にとって、とてもショックでした。
その頃は、学校に行かず 家で攻撃性のあるゲームをしたり、ちょっとでも私が拒否言葉をだすと暴れ、お兄ちゃんの大事にしているプラモデルをポキポキ折っていくという毎日でした。 家庭の中も全部グジャグジャになりかけて、ドッタン バッタンしていることが多く、今まで何もかもできていたことができなくなり、怠けているのではないか...? とか学校に行かないことを家族で責めたり、家族が最悪な状態でした。
どうにかしなければ・・・・と思うのですが、思えば思うほど焦ってしまい家族みんなが空回り... みんなの心がバラバラになっていく。
「何故、私たちの家族だけが不幸になるの――」と神様を恨んだこともありました。その時に主任の先生が「どん底まで落ちたら後は、はい上がるだけよ」と声をかけてくださり、又 ある先生は、「『大変』とは大きく変わる・・・と書くのでチャンスと思った方がいいんだよ 」とアドバイスをしてくれ、先生方に勇気づけられました。
まだまだ不幸のどん底、そして不幸のヒロインになっていた私に『愛と勇気づけの親子関係セミナー』の話が舞い込んで来たのです。
そして、すぐ受けることにしました。
毎週、毎週受けることによって だんだん自分が楽になり、自分が落ち着いていくのを感じ、子供も落ち着いてきたように思いました。
そのセミナーを実践しながら、子供の気持ちもわかってきて、せっかく今こうなっているんだからゼロから全部やり直そうと自分で決めました。
そう決めても、今までの私のやり方が顔をのぞかせ邪魔をして葛藤の毎日でした。そして、今までの子育てのやり方を変えていくのですから 子供達の方も調子を 崩します。 だから私は、長女小6、長男小3、二男小2年生の子供達を前にして今までのことを謝り、これから新しい子育てをしていくことの協力を、お願いしました。
その時に、長女が口に出した言葉は
「お母さんは、いつも私たちのことは後回しにして、家のことばかりしていた」 と言われ、考えてみたら、その頃 母の役目は後回し・・・。
いつも、嫁の方を優先して、家のためと思いながら生活していたのです。私が夫の父母を大切にしていたら子供はそれをちゃんと見てくれるだろう・・・ と思い、一生懸命していたのです。でも、これも空回りだったようです。
考えてみると父母、夫に気を使いすぎて子供を感情的に怒ってしまったり、物事を強制したり、自分の感情で子供を動かしたりする毎日だったように思います。 子供を自分のものとして 支配していたことを深く反省させられました。
この日から、今までのことも全部子供達と話し合い、勇気づけをしながらの新しい子育てが始まりました。
残念なことに、まだ夫はわかってくれなかったので、4人でのスタート!!
いえいえ、これは私の自分育てのスタートだったのです。
まだまだ、二男も落ち着いているときばかりではなく、気に入らなければ私を 殴る、蹴る、物を壊す、大声を上げる・・・。
小学校2年生のあの小さな身体で力一杯抵抗してくる。 私もその頃は経験不足で暴力が始まったら一番に兄をカバーしてやり、まだ親の方が力が強いのでその暴力を止めさせようとしていました。止めようとすればするほど抵抗してきて、目は涙でいっぱいにして何かを訴えているのです。
最初の頃はそんなこともわかってやれず、「親に暴力を振るうなんてとんでもない」と思っていましたから、暴力が始まったら私の方が先に感情的になり、キレてしまって、いろんな言葉を子供にぶつけて、子供の心をキズつけて、キズつけて傷つけ過ぎていったみたいです。(かわいそうなことをしました)
いつまで この家庭内暴力と付き合っていかないといけないんだろう...? と
不安でいっぱいになったり、絶対父親の前ではしない。なぜ私だけに....??
考えてみると暴力が出るときは、上の子をかばったときや、二男を追い込んだ時に出るような気がしてきました。
言葉で言い表せないから身体をはってぶつかってくる。
今までは、それさえもできなくて いろんな事を我慢ばかりしてきた。 こういう方法でしか表すことができないのなら協力してやろうと思いました。
そして、暴力が出た時には、私が布団にくるまり、
「力一杯蹴っていいんだよ、気が済むまでたたいていいよ 」
と言って、私は布団の中で、蹴られながら 涙をこらえ、耐えていました。
あの小さな足で私を蹴りながら、二男の「心の叫び」が聞こえてくるのです。
「ボクだってお兄ちゃんのように甘えたかったんだ......今のボクが本当の
ボクなんだ――― わかってよ、 苦しいよ―― お母さん助けて――― !!」という声が....。
子供なりにいろんなことを我慢して、お姉ちゃんお兄ちゃんに負けたくない、自分が「良い子」をしている事によってお父さん、お母さんの愛を注いでもらえる....と小さいながらに思っていたのでしょう。
今まで私たち夫婦は、子供達を一生懸命愛しながら大きくしてきたと思っていたのに....。 子供の方は、愛されようといつも自分の気持ちを殺してまで頑張っていた.....。私たちは100パーセント愛していたつもりなのに.....。
でも、子供の方がそれを感じていなかった......。
私を蹴ることによって発散できるのなら、そして 本当の自分をだせるようになるのなら、喜んで蹴られようと思いました。
そこで初めて子供の気持ちになって、受け入れることができたのです。そして、
「今まで辛かったね ゴメンネ!!」
と抱きしめながら、本心で謝ることができたのです。
夜になると甘えてきて、昼間の目がつり上がった凶暴さはなくなり、ごく普通の子供に戻り、昼間のことを謝るのです。
「自分ではない自分がいて、いつの間にか出て来てお母さんをいじめてしまう 」と自己嫌悪に陥っているのです。
子供の方が苦しんでいて、とにかく安心感を与えないとダメになっていくような気がしてなりませんでした。 子供と私たちの間にズレがあるのなら、今しないといけないことは親子関係を少しでも良くしていき、信頼関係を取り戻すこと。
それをしないと次に進めないと思いました。
「無償の愛」・・・・何をしてもOK!! 何を言ってもOK!!
とにかく今は、不安を取り除いていくこと。 安心して親子で話ができるようにならなければ..... と思い、あるがまま・・・・子供の全部を受け入れました。
いえ、受け入れるよう努力しました。 (ここでは私の忍耐力が育てられました)
でも実際、全部受け入れるというのは難しく、今までと全然違うやり方をしているので、子供の方にためされることも多く葛藤、葛藤の毎日でした。
ここで親の方も、忍耐強くなっていったと思います。
そういう形で子供を受け入れることによって、だんだんと親子関係も以前より良くなってきていると実感しました。
数ヶ月もするうちに暴力も少なくなり、家族で話をする機会が多くなり、手や足をださなくてもいい、言葉でのコミニュケーションがとれるように変わっていきました。 家庭の方も落ち着きを取り戻し、夫も子供の事を少しずつ理解してくれるようになりました。 その頃から、夫と子供のことについて話ができるようになり随分、私も楽になっていき 自分だけの子育てから脱皮できたのです。
「~しなければならない」、「~してあたりまえ」、「~あるべきだ」と いつの間にか押しつけ教育をしてしまったり、子供達が一生懸命していることを大人は当たり前と思いそれを認めてやらない。
大人の価値観で子供を見たり、又 比べてみたり、いろんな面で子供を苦しめたり傷つけたりしてしまいました。 子供達の方もいつの間にか、自分らしさをどこかに忘れてきているような気がしてきたのです。
もっと子供達に「自分らしく生きて欲しい」、「自分で考えて行動できる人間になってもらいたい」と、夫婦で「子育ての目標」も、はっきりしてきて、初めての共同作業の子育てがスタートできたのです。
学校に行くのも、休むのも自分で決めよう。(自分の事だから....)
親は口をはさまずできたことは認めよう。
最後まで見守りながら本人に任せよう。
失敗は成長のチャンス、失敗を恐れずどんどん失敗をしよう。
そして、その失敗について、次はどうしたらいいか考えよう。
・・・など、いろんなことの話し合いをしたり、勇気づけをしながら手探り状態でやってきました。
小学校を卒業するまで、いろんな事を経験したり出会った先生方に支えてもらい自分のペースで休みながらも行くことができて、無事みんなと一緒に卒業式を迎えることができました。
中学校になり、入学式から6月頃までは休みながらでも頑張って行っていたのですが疲れてしまったのでしょう。それからずっと行かなくなりました。
小学校の時とは違い荒れることなく、自分で行かないことを決めていたので、毎日を楽しく過ごしていたようです。 担任の先生も、よく訪ねてきてくださり、先生とのコミニュケーションも上手ではありませんが 少しずつ出来ていきました。
昼夜逆転が始まっても親もイライラすることなく子供の事は子供に任せ (心から)私たちは自分の生活を楽しんでいました。
家で楽しく過ごしていて、そして親子関係が良かったら いつかきっと自分から動き出す!!と いつの間にかそう信じるようになっていました。
もう、その頃には焦りも何もなく子供の人生は、自分で選んでしているんだし、
困ったときには、自分から言ってくるだろう。それまで親はゆっくり待ちながら、自分のしたいことをエンジョイしょうという考えにもなってきていました。
でも情報だけはいつも与え、子供と話し合うことだけは忘れませんでした。
1年前ほどから『あかね色の空を見たよ』の映画活動を手伝っていて、丁度そのころから忙しくなりました。
この『あかね色の空を見たよ』の本に、私たち親子は一番苦しい時に出会い、毎晩寝る前に子供と一緒に読んで共感しながら涙を流し、そして、勇気づけられ生きる力をもらったのです。 だから、私が「この映画活動のお手伝いをしたい....」と家族に相談をした時もみんな賛成してくれ、二男も協力的で本当に家族のありがたさを感じました。
3月の試写会、4月に自分達の地元の中学校での映画上映会に向けて、準備が整っていくうちに、だんだんと子供のことも少しずつ おろそかになって行きました。
(この地区で上映会を立ち上げた以上、どんなことがあっても成功させたかったし、
こういう親の姿も必要かな?と思い....)
それが良かったのか....?
情報を与えていた、4月に開校予定の不登校を受け入れてくれる、吉備高原にある「希望中学校に見学に行きたい」と言いだしました。
早速、子供のために1日休みをとり初めての道を迷いながら、普通1時間少々で行ける所を3時間もかけて、やっと学校にたどり着いたのです。
まだ中学校は建設中で、のびのび小学校で体験入学をさせてもらいました。
第一印象は、やらされる教育ではなく、楽しく自分たちで進んでやっているという感じで、目が輝き みんな生き生きしていてすばらしい!!…と感じました。
・・・・でも行くのは本人。
自分のことは自分で考えて決めるだろうと思い、のんびり構えていたところ、
「堂野さんも立ち上がるまで5年かかった。ボクも5年目、ここの中学校へ行く!」
と、自分で決め、あっという間に、私たちのカゴの中から巣立っていったのです。
(これには、家族全員びっくりしました!!)
入学式も家族みんなで出席して祝福しました。中学校での2度目の入学式・・・(2回入学式をするなんて.... めったにいない!!)
この中学校は全寮制の為、入学式が終わると、その日から家族と離れ全く知らない先生方や、この日初めて出会った友達と生活していくのです。
喜び...希望...そして 不安... いろんな気持ちでこの日を迎えたと思います。
私たち家族も、離れて暮らすけれど、「いつまでも応援しているよ」と大きなエールを送りながら、家路に向かいました。
希望中学校・・・今までの自分を変えようと、薄暗――いトンネルの中に小さな、小さな希望の光を見つけ、不安を抱えながら 自分の足で立ち上がろうと、一歩 いえ半歩ずつ 前へ進みだし、新しい自分探しの旅が始まったのです!
私たち家族も最初から完璧を求めていたわけでもなく、とにかく、「自分らしい中学校生活が楽しめたらいいなぁ!!」と思っていました。
生まれて初めての家族と離れての生活、6時起床から始まる規則正しい寮生活、そして学校生活・・・・。 最初は自分なりに一生懸命頑張っていたのですが、ホームシックにかかったり、新しい人間関係に戸惑ってみたり、精神的に腹痛が起こったりで1学期間は、1週間寮で生活することもできないこともありました。
2~3日すると家に帰ってきて、そして学校での疲れを何日かかけて取り戻し 又元気になったら自分の力で寮の方へ戻っていく・・・というふうに。
でも、私たちは全部本人任せにしました。
(せっかく、5年前から指示、命令をやめて任せるやり方をしてきたので、前みたいなやり方で同じ失敗を繰り返したくなかったから・・・・!!) 今まで自分のペースで何年もやってきているのだから、集団生活はとても厳しくストレスもたまったり、人間関係も上手ではないので、頭を打つことも たくさんありました。そして学校の子供達も人間関係の上手な子ばかりではないし、先生不信があったため、先生との付き合い方も知らないし・・・・・
とにかく新しいことばかりで、本人も不安の方が多く 自分で解決できないことも
たくさんあり、家に帰って来て部屋に閉じこもり状態になった日もありました。
そういう日が続いても、私たちは平然として(本当は心配でした)自分との葛藤を心から喜んでやり、いつかは自分の力で解決していってくれることを望み、家庭では、楽しい雰囲気作りを心がけ、勇気づけをしていきました。
ひとつ、ひとつの壁にぶちあたりながら、解決の手だてとして、親は話を聞いて決して答えを出さず、失敗をしてでも自分の考えたことを実行させてやりました。今まで失敗を恐れて何もできなかった我が子が、失敗を繰り返しながら、いろんな経験をとおし、少しずつ自信を取り戻していっていると感じるようになったのです。
一番びっくりしたことは、2学期も後半になって 寮の方も1週間続けて泊まれるようになっていたし、家にもあまり電話もかかってこない、友達関係も慣れかけ心配することもなくなって安心していた頃のことでした。
校長先生から
「授業にも出てこないし、寮の部屋に閉じこもり出てきません 呼びに行くと、
(校長先生に向かって) うるせー 出ていけー!!とすごい顔つきで・・・・」と 困られた様子のお電話でした!!
電話を持った手がブルブル震え、私の心臓の大きな音が電話口にも聞こえそうな
ぐらい鼓動を打ち、ただ「すみません」とだけ言えて電話を切ったのです。 (それくらい私は動揺していました)
電話を切って、何分間ぐらいか頭が真白い状態になっていたでしょうか??
気がついてみると、保育園、小学校と とても「良い子」だったので学校から、困った電話など受けたことがなかったので、私も初体験だったのです。
「校長先生に反抗するなんて」・・・・と思ったのですが、じっと考えてみたら
「校長先生に反抗できた」・・・・素晴らしいことだと思い、自分の子供に拍手を送りたいと思ったのです。 (おかしな親ですね)
「先生に反抗できるまで成長した」と感じたのです。とても嬉しくなり私はすぐ、校長先生に電話をしました。
「子供の反抗のことは親として謝ります。でも どんな形でも反抗できたということには、その成長を喜んでやりたいと思います。まだ反抗する・・・とか いろんな事に未熟ですので、やり方を知らな方が多いと思います。ひとつ、ひとつ家の方でも教えていきますけど、学校の方でも何かある事に教えていってもらえるとありがたいです。」 と お願いしました。
とにかく何事にも経験不足。普通の学校では出来ないことも、この学校では経験させてもらえる、そして、待ってもらえる....。
先生方と話し合いながら子供を任せていけると感じだしたのも、子供が問題行動を起こしながら、先生方と一緒に悩み、子供と話し合うことによって少しずつ、解決の方法が見えてきたから....。 そして、1年近くかかって先生方とも信頼関係ができたり、自分を出すことができたり、友達や先生に自分の言葉で伝えることができたりするようになり、楽になっていったのではないかなと感じました。
2年生から入学して、この1年間は色々なことがあり過ぎました。
「良い子」の殻を破りながら 悪い子をしてみたり、普通の子をしてみたり、そのことでびっくりしたり、つまずいたり、喜んだり また、とても苦しい葛藤の日々を送ったり、たくさんの経験をしました。
たった1年過ごしただけなのに、何年間もの成長を見せてくれ 日に日に変わっていく14歳の我が子を見て、自分を出せる場所が見つかって本当に良かった....と感じました。
3年生になって学校にも慣れて 落ち着いてきていましたが、まだ人間関係に疲れたり、自分との葛藤に力を全部振り絞り、動けなくなる日もありました。
色々な経験の中から、自分で解決していくことも覚え、自信もつきかけた頃だったと思います。 父親と初めての大きなぶつかり合いがありました。
何年か前の私だったら ただオロオロするだけでパニックになっていたでしょう。
でも、これもいいチャンスと思い、私は二人に任せました。
解決するまでには多少時間がかかりましたが、 解決して行くうちに、二人の間が前よりだんだん良い関係になっていっていました。
又、ひとつの大きな壁を乗り越えたからでしょうか? その頃より、自分の進路をはっきり決めて前向きに進み出しました。
目標が決まると、こんなにも身体が軽くなったり、何事にも意欲的になったりして、子供の力の素晴らしさを感じることができました。
この希望中学校で 親から離れ、寂しい時もあったり、いやになるときもあったでしょう。でも、みんな違った環境の中で育てられた友達と出会い、集団生活の中でお互い力を合わせ、苦しい時や辛い時もみんなで乗り越え、又、喜びも何倍にもなり、貴重な体験ができたと思います。家だけではできない経験もたくさんして
いくうちに、みんなを思いやる心、忍耐力、責任感も育てられたと思います。
そして、一緒に生活していくうちに 疲れていた心もだんだん癒えてきて、友達や先生から力をもらい、そして支え合いながら、今まで眠っていた?自分を取り戻すことができたのでしょう。
・・・・今は、受験を目前にし、次の希望に向かって進みだしました。
この7年間を振り返ってみると色々なことがありました。 今は平穏な日々を送っていますが最初の頃は、毎日、苦しみ、孤独、涙、怒り、葛藤・・・の繰り返しで自分がどうにかなってしまうんではないか? と思ったときもありました。
その中で一番苦しかったのは、家族にわかってもらえなかった以上に、同じ小学生だった、姉 兄の対応に悩まされたことでした。 長女の方は話せばわかってくれましたが長男の方は1歳しか違わないので、いつも我慢をしていたみたいでした。二男がいない所では、
「お母さん、ボクのことも忘れないでね...」と辛そうに言ってくるのです。
その頃は、長男の方まで見てやることもできない時もあって、私の心が苦しく、はち切れそうになったりしました。 又、私にそのツケが回ってきたのでしょう。
二男の調子が良くなりかけていた頃、長男が
「ボクも弟と同じ病気になったみたい」 と言い、学校に行けなくなりました。
二男も少しずつ学校へ行けるようになっていたので
「何でボク(長男)までが.....」 (私としてはショックでした)
と声をかけてしまったのです。その時に、
「今までありがとう、お母さん助かったよ....」という言葉をかけなかったことを後悔しました。
そして、友達が「同時にならなくて良かったね!!」と言ってくれ、二男も落ち着いてきているので、今度は長男にも納得できるようやってみました。
やはり二人目なので、長男を責めることなく、今までの疲れをとってやるように
何事も、話し合いながら子供の気持ちを聞きながら 無理をしないようやりました。
その日から、長男も行ける日だけ 二人違う時間に学校まで連れて行ったり連れて帰ったり、本当に忙しい日々を過ごしました。
そういうことを続けていると多少元気になり 中学校に入学して、自分を変えようと自分なりに努力していました。 (子供なりに一生懸命なのです)
でも頑張り過ぎたのか? ストレスがたまったのか? 小さい頃からの持病の喘息の発作が毎日のようにでて、寝込む事が多くなりました。
3学期より本格的に学校にも行けなくなり、二人目の不登校児誕生となりました。
2年生の2学期より、入院して喘息を治しながら学校へ通うという養護学校へ転校したのです。 (自分の意志で!!)
そこでは、 病弱部の先生方や友達、ドクター、看護婦さんとの出会いがあり 自分の病気に負けない身体作り....病気でも、身体が不自由でも一人の人間として認めてくれる信頼関係を身につけ、みるみる元気になり、生き生きと生活できるようになりました。 そして病弱部や肢体不自由部の友達との出会いの中から貴重な経験をさせてもらい、とても優しい子になりました。
今は何事にも意欲的で、のびのびと楽しく高校生活を送っています。 長女も只今、社会人1年生。高校卒業後、自分のしたいことがあり、それを求めて何度も挑戦をしてみたのですが、この不況で思うようにはいきません。
今は、自分の夢とかけ離れている職種ですが、そこでも新しい出会いがありました。その出会いの中から、いろんな社会勉強をさせてもらい、学校生活では経験できないような・・・・生きていくために必要なことをどんどん自分で吸収していき、みんなに育てられ成長させてもらっていることをありがたく思います。
3人とも親が敷いたレールの上を歩くのではなく、自分で考えながら選んだ道を歩んでいけるようになりました。
二男の「不登校」がきっかけとなり、長い間かかっていろんな経験をして、つまずきながら 子供達と共に私たち夫婦も育っていったような気がしました。
子供が産まれたと同時に私たちは自然に親になり、最初は何もわからず経験不足なりに子育てをしていきます。
親も一生懸命、子供を育てていきますが、本当は子供が私たち親を育ててくれて
いるような気がしてきました。 そして、子供から元気をたくさんもらい、私たちも自然と元気になれ、やっと家族が家族として機能するようになって感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、一番嬉しいことは、たくさんの出会いがあり その出会いの中で自分が育てられ、又 たくさんの勇気をもらいました。心から話せる友達ができて、もう何が起こっても大丈夫。という変な自信もついて来ました。
考えてみると二男の「心の叫び」は、私自身の「心の叫び・・・」のような気がしてきました。 嫁として気を使い、もちろん妻、母も完璧にやりこなす。
いつの間にか 自分で自分の首を絞めていったのかもわかりません。
今は、私自身、自分らしく生きていけるようになり、とても幸せを感じます。
そして、あの頑固な夫が変わってくれたこと、子供達の良き理解者になってくれたことをとてもありがたく思います。
先日、二男が
「ボクは、小さい時にお父さんがすごく怖くて話しかけられず、部屋から出ていけなかったこともある」
など、今まで自分の思っていたことを全部話したみたいで、父親はびっくりしていました。、(父親は、そんなこと全然思っていなかったから・・・)
私には言えても、父親には言えないことも随分あったのに。最近は、このように自分から話をしていくことも多くなり、親子でいろんな会話をするようになりました。
小さい頃のこと、学校に行けなかった時のこと、いろんな事を含め今日までの自分をしっかり見つめ直すことができて、自分の言葉で言えるようになりました。
今回それを父親に受け止めてもらったので、もしかすると二男が小さい時に、受けていた傷も少しずつ癒えていっているのかもしれません。
親は子供を傷つけようなんて思っていませんが、知らず知らずのうちに、かわいい我が子を傷つけることもしばしばあるので、親も意識して言葉がけをしないとダメだなぁとつくづく感じます。
その一言で、大人も子供も みんな元気になったり、落ち込んだり。心にも言葉の栄養水をたくさん与えて上げて元気になってほしいと思います。
子供を勇気づけ、夫を勇気づけ、そして私自身を勇気づけ、言葉の大切さを学びました。 今、私たちは言葉のコミニュケーションがしっかりできるようになり、キレたりすることもなく、思春期を穏やかに生活できています。
苦しいことも 悲しいこともいっぱい経験させてもらい、自分自身が強くなりました。その中から希望をみつけ、出会いを大切にして共に喜びを分かち合う友達もたくさんできて・・・・・バンザーイ!! 色々な贈り物をありがとう。
子供達は私たちの宝物!! 不登校も宝物・・・!!
これからも心の栄養をいっぱいみんなに与え、共に歩んでいきたいと思います。
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